heridono’s diary

heridonoが日々感じたことを書くブログ

「たまこラブストーリー」を観た

たまこまーけっと、というTVアニメの関連映画らしい。

もう一回観たい。

アニメの視聴者向けの内輪ネタみたいなところはちんぷんかんぷんだけど、街の人に愛される、たまこ、の存在は、とても普遍的な愛らしさを感じさせてくれる。ざっと言えば、たまこともちぞう、との恋話であり、丹念に描かれる心象はこころを打つものがある。

ただそういうのがおこがましく感じるのは、登場人物が皆魅力的だからだな。アニメの圧縮版みたいな感じにはなっていなくて、それでいて、登場人物の雰囲気にすんなりなじめるのは、観ていて本当に心地よいし、世界に入っていける。

舞台が京都というのも、ところどころ見たことがある景色があって、現実との接点が自然と得られて良い。街の人とのやり取りだけで2時間でも僕には良さそうだ。もしかしてアニメ版はそんな感じなのかな。たまこが日常をどう生き、他の登場人物と接するのか、それを、同じ丹念さで描いているのだという想像がふつふつと沸いてくる!

一回観た視点で、もう一度みて、細部で楽しみたい。そして、もう一度観たくなるのだろう。

育児への夫の参加について

まずこのタイトルの時点で、批判を受けそうである。育児というのは本来妻が行うものであるという印象が、少しだが感じられる。育児に夫が「参加」するのではなく、育児とは夫もすることなのだ、参加しないことなど考えてはいけないのだ、と。

まあそんな揚げ足取りへの先回りは、ドストエフスキーに任せるとして、妻が主婦として家事を担当しているとしても、育児に夫が参加するのは不可欠だ。夫は仕事で大変だろうが、育児はそれ以上に大変だ。

育児を仕事だと仮定すると・・・、とか言う試算や議論をしている記事を時々見かけるが、たぶん、金額以外の労働条件の詳細が異常過ぎて、そもそも数値化できない気がする。24時間体制の保育施設に30日預けるとして、とか言う計算でも足りない。我が子を、24時間、何年も休みなく、自分の疲れや気分にまったく関係なく、一人で面倒を見る。

幼稚園・保育園に預ければOK?そうでもないだろう。預けている間、家で家事をする、仕事をしているならば、出勤して仕事をする。どこかで我が子のことを思いながら。そして否が応でも、子供は帰ってくる。休みなく続く家事と育児。

もともとがキレイ好きだったら、発狂しかねないほどに、子どもたちはすぐに床をおもちゃで溢れさせる。掃除機をかけるのも一苦労。何もかもが、一人暮らしのときとは別のルールで動いていて、それに自分をスムーズに合わせていける人なんていないだろう。どこか常に無理をしている。自分の子供ためだと思って。

たぶんこれでは、まったく言い尽くせていない、とんでもない大変さが主婦にはある。人一人が本来担えるようなものではない大変さなのだと思う。

そこで夫の出番である。出番であるが、慣れぬことゆえ、何をやってもうまくは行かず、うまく行ったと思っても、妻に細かい(細かい!!)文句を言われ、夫の育児・家事への参加も過酷なのである。仕事で評価されている人からしたら、できの悪い部下に成り下がった感じがするかもしれない。仕事で疲れているなか手伝ってあげているのに、という気持ちも自然と湧いてくる。そんなこと一言でも妻に漏らせば、喧嘩になる。その気持ちを押しつぶして、結局消しそこねて、子供にあたってしまうこともある。

それでも、やはり夫は懲りずに参加するべきだ。妻も、懲りずに頼るべきだ。妻の効率の5割くらいでも実現できれば、夫の参加には十分に価値があると思う。育児で妻が腰を痛めて、急に一日動けなくなることだってある。不完全でも、育児・家事を回して、止まらないようにできれば、回復した妻がどうにかまた戻る時に少しは助かる。

仕事は、問題を解決することだが、育児・家事には、答えも終わりもなく、一見、問題に見えることも、別の角度からみると問題ではなく必須な核の場合もある。明らかにこうすれば良い、ということを実現できない障害が、過去数十年の社会の変化だったりすることもある。

言うは易し。

笑ったり、泣いたり、おねしょしたりする我が子を目の前に、必死にやり過ごすしかない。とびきりのかわいい笑顔に癒やされながら、その程度では苦労は癒えないが、毎日は、過ぎていく。このことに意味があるのだとしたら、人生にとってかけがえの無いことであるし、不十分でも、時には邪魔だと言われながらも、夫が参加できることは、どんなにか夫婦の心の支えになるだろう。

背中に熱がこもり寝苦しい夜

昨晩は寝苦しかった。背中に熱がこもるので寝返りを打つのだが、やはり背をつけたいので体勢を戻す。そんなことを繰り返しているうちに、窓の外が明るくなった。

仕事場に行くと、エアコンの冷気の中に身を置く。部屋の外に出る度に、身体が急激な外気温上昇にぐったりする。この繰り返しが身体に悪いだろうことは分かるのだが、エアコンを切ろうとは思えない。

パソコンも、夏の暑さの中ではすぐに性能が落ちてしまうようだ。熱くなってきたかと思うと、普段なら平気で実行できる作業が遅々として進まない。少しパソコンを浮かせて、パソコンの底面に空気が入りやすくすると、少し動作が軽くなるようだ。最近ではファンレスのパソコンも多いが、夏でも問題なく動作するのかしら。スマートフォンタブレットが、特に問題なく動いているから大丈夫なのだろう。

それにしても、よく眠れもしないのに、横になり続けるというのは、案外大変なものだ。小さい頃には、眠れなくとも横になるだけで身体が休まると言われた。今子供にもそう言っているのは、興奮して眠れないだけで、横になって目をつむっていればすぐに眠るのは明らかなので、子をだまして言い聞かしているのだ。だが、年を取った我が身、何か考えことでもあると、本当に眠ることができないこともある。心が眠らないのに、身体が寝た姿勢を保つのは、どうも普段とは違う部位に緊張が生まれるらしく、変に疲れる気がする。その違和感が、また心に映り込んで、心の緊張が高まるようである。

幸い、そんな夜は年に何度かしかない。たいてい5分もかからずに眠る、優良な睡眠能力保持者なのだ。子供を寝かしつけていて先に眠る始末。子は私のイビキで眠れなくて良い迷惑だとか。今度もしまた寝付きが悪い時には、少し起きて、深呼吸でもしてみよう。身体の眠りに、心を合わせてみよう。

ブログを久しぶりに始めたい,始めた

すごい昔,毎日のようにブログ記事を書いていた.まだtwitterなんか無い時代,いろんな一般の人が気楽にブログをやっていた.内容はひとそれぞれで,テーマを持って書くというよりは,コミュニケーションツールとして使っている人が多かった気がする.僕はmixiとか一度もやらなかったし,ブログだけでネットの世界でのやりとりをしていた.

わけの分からない人からコメントをもらったり,わけの分からない人が同じ興味を持っていてそこに少し緊張しながらコメントをしたり,そんなことをするのは,とても新しいことのように思えたし,確かに自分の範囲が少し広がるような気がしたものだ.

今となっては,ネット上でゆるい人格を持つことはかなり簡単になった.twitter, facebookなどはもはや常識的に使われていて,そのようなツールがあるということを含めて,リアルな世界の人格も影響されるような状態である.

そんな中,なぜブログをもう一度やろうと思ったか.年に一回くらいそういう気分になることがあるのだ.今回は出張のあいだに,ある本を読んでいて,文章を日々書くということの大切さを再認識したことにある.しっかりと思考を組んで,文章を書くことは,過去に出来ていたからといって,今も出来るというものではない.文章を書く筋肉というものがある気がしていて,その筋肉は使わなければ衰えてしまう.文章を書く筋肉は,考える筋肉と連動している.人が考えを巡らせる時,意味のある結論は文字でしか得られないからだ.

文章を書けなくなるということは,考えられなくなる,ということに近い.読者を想定した文章であることも大事なのだけれど,原点に戻って,自分に向けて文章を書き,考え,また文章を書く,という流れを再開したい.緊張感をもってその作業を行うためにブログを使いたい.土手で楽器の演奏をするように,失敗をおそれずに書きたい.