heridono’s diary

heridonoが日々感じたことを書くブログ

育児への夫の参加について

まずこのタイトルの時点で、批判を受けそうである。育児というのは本来妻が行うものであるという印象が、少しだが感じられる。育児に夫が「参加」するのではなく、育児とは夫もすることなのだ、参加しないことなど考えてはいけないのだ、と。

まあそんな揚げ足取りへの先回りは、ドストエフスキーに任せるとして、妻が主婦として家事を担当しているとしても、育児に夫が参加するのは不可欠だ。夫は仕事で大変だろうが、育児はそれ以上に大変だ。

育児を仕事だと仮定すると・・・、とか言う試算や議論をしている記事を時々見かけるが、たぶん、金額以外の労働条件の詳細が異常過ぎて、そもそも数値化できない気がする。24時間体制の保育施設に30日預けるとして、とか言う計算でも足りない。我が子を、24時間、何年も休みなく、自分の疲れや気分にまったく関係なく、一人で面倒を見る。

幼稚園・保育園に預ければOK?そうでもないだろう。預けている間、家で家事をする、仕事をしているならば、出勤して仕事をする。どこかで我が子のことを思いながら。そして否が応でも、子供は帰ってくる。休みなく続く家事と育児。

もともとがキレイ好きだったら、発狂しかねないほどに、子どもたちはすぐに床をおもちゃで溢れさせる。掃除機をかけるのも一苦労。何もかもが、一人暮らしのときとは別のルールで動いていて、それに自分をスムーズに合わせていける人なんていないだろう。どこか常に無理をしている。自分の子供ためだと思って。

たぶんこれでは、まったく言い尽くせていない、とんでもない大変さが主婦にはある。人一人が本来担えるようなものではない大変さなのだと思う。

そこで夫の出番である。出番であるが、慣れぬことゆえ、何をやってもうまくは行かず、うまく行ったと思っても、妻に細かい(細かい!!)文句を言われ、夫の育児・家事への参加も過酷なのである。仕事で評価されている人からしたら、できの悪い部下に成り下がった感じがするかもしれない。仕事で疲れているなか手伝ってあげているのに、という気持ちも自然と湧いてくる。そんなこと一言でも妻に漏らせば、喧嘩になる。その気持ちを押しつぶして、結局消しそこねて、子供にあたってしまうこともある。

それでも、やはり夫は懲りずに参加するべきだ。妻も、懲りずに頼るべきだ。妻の効率の5割くらいでも実現できれば、夫の参加には十分に価値があると思う。育児で妻が腰を痛めて、急に一日動けなくなることだってある。不完全でも、育児・家事を回して、止まらないようにできれば、回復した妻がどうにかまた戻る時に少しは助かる。

仕事は、問題を解決することだが、育児・家事には、答えも終わりもなく、一見、問題に見えることも、別の角度からみると問題ではなく必須な核の場合もある。明らかにこうすれば良い、ということを実現できない障害が、過去数十年の社会の変化だったりすることもある。

言うは易し。

笑ったり、泣いたり、おねしょしたりする我が子を目の前に、必死にやり過ごすしかない。とびきりのかわいい笑顔に癒やされながら、その程度では苦労は癒えないが、毎日は、過ぎていく。このことに意味があるのだとしたら、人生にとってかけがえの無いことであるし、不十分でも、時には邪魔だと言われながらも、夫が参加できることは、どんなにか夫婦の心の支えになるだろう。